Culthouse diaspora

風が辿りつかない場所

8月9日

8月9日である。72年前の今日、長崎市浦上天主堂の上空で原子爆弾は炸裂した。プルトニウム239を使用したこの爆弾の威力は広島に投下された原爆の1.5倍の威力と言われるが、周りを山に囲まれた長崎市の地形によって爆風や熱線が遮断された結果、広島市よりも被害は軽減されたと言われている。それでも、1945年のうちに長崎では、当時24万人いた人口のうち7万4千人もの人々が亡くなっている。先の東日本の震災の犠牲者の3倍近い。数字はあくまで数字でしかない。しかしどれだけの出来事であったかを想像するには数字は便利なものだ。

俺の通ってた小学校の夏休みの登校日は8月6日だった。登校日には小学校で平和教育が行われるのが例年のならわしだ。俺の地元である福岡の大牟田市は長崎はほど近い位置にある。長崎原爆の最初の投下目標が小倉だったことはよく知られているが、大牟田の候補の一つであったらしい。大牟田でもキノコ雲や閃光を見たという話や、爆音が聞こえたという話もどこかで伝え聞いたような気がする。にも関わらず、何故8月9日ではなく広島原爆の8月6日が毎年の登校日だったのかは、未だによく分からん。
今以上に豆腐メンタルで感受性の強い子だった小学生のymd少年は、毎年夏の時期の戦争特番や平和教育で精神の具合が悪くなっていた。今でこそデスメタルブラックメタルを好んで聴き、ホラーやゴア描写も平気になったのだけども、幼稚園から小学生の頃はとかくそういったものがダメだった。当時流行ってた学校の怪談とか超嫌いだったし、ノストラダムスの予言系の話も苦手だった。そこでいくと戦争の話は肉体的にも精神的にもエグい話のオンパレードで、やっぱり見聞きすると具合が悪くなっていた。

原爆の話なんかその最たるものだ。図書館で読めるマンガという事で同級生が好き好んで読んでいた「はだしのゲン」には怖くて手を出せなかった。しかし福岡の小学生の修学旅行の行先は長崎。ともなれば絶対に長崎原爆資料館は訪れることになる。修学旅行に行く前、小学校で木下惠介監督の「この子を残して」(永井隆の同名の随筆が原作)を見せられたことを未だに覚えている。細かな内容は忘れたが、エンディングの原爆炸裂後の地獄絵図のシーンが強烈過ぎて精神に不調をきたしたことは今でも覚えている。

そしてその後に訪れた原爆資料館。11時2分で止まった時計。熱でドロドロに融けたラムネの瓶、人影だけが焼けついた壁、全身黒焦げの子供の写真、etc. 誇張も虚構もなく、ただ過去にその地が地獄と化したことを淡々と物語る資料の数々は、ただそれだけでひたすらに恐ろしかった。ガキだった当時なりにある程度の覚悟をして臨んだが、特大級に具合が悪くなった。その後1,2ヶ月くらいはメンタルにダメージを負っていたと思う。今になって振り返れば、必要な経験であったのは間違いないのだが。

いずれにせよ、知っている状態というのは知らない状態より良い。知って、何を考えるかはその人次第だ。それ以上の事をこのブログで書くつもりはない。近しい親戚縁者に長崎や広島出身で直接被爆した人間はいないし、元々宇宙に関心があったこともあって、原子力や原爆のメカニズムだのには多大な興味を持ってあれこれ本を読んだりしたけども、別に専門家ではない。

ただ、考える機会があるということはそれだけで幸福だ。少なくともそれを忘れてはならない、とは強く思うのだ。